【サボテン今昔】No.1「金鯱」


(ご挨拶)

この度、ホームページ「サボテン今昔」の掲載記事を再編し、本ページに転載いたすことになりました。

HP、本に収載出来なかった写真等も掲載の予定です。なお、文中の時代は筆者記載の当時のままになります。






(本文)

世界中で最も普及しているカクタスの筆頭は金鯱であろう。

成熟期を迎えたわが国のサボテン界では大きくなぎて金鯱を持て余す話も珍しくないほどであるが、サボテンをやり始めたばかりの頃は金鯱をコレクションの主役に据えた記憶をお持ちの人達も多いと思う。

今から150年くらい前、交通が極めて不便であったメキシコの山奥からこの素晴らしいカクタスを文明社会に紹介したのは誰だったのだろうか。

バッケベルクBackebergのDie CactaceaeによればEchinocactus grusonii HILDM.1861とあり、正規の文献に登場したのはそれほど古いことではない。

というのは同じエキノカクタスの大平丸 E.horizonthalonius が1839年、巌 E.ingens が1837年というように先輩が沢山いるからだ。

 

日本への渡来は伊藤芳夫「原色サボテン」によれば明治45年(1912)ころ、とのことであるが、古い資料で見る限り大正から昭和初期にかけて、金鯱は日本では余り普及しなかったと考えられる。

種子の入手がなかったか、また、たとえ種子が入手出来たとしても、当時の日本の栽培レベルではサボテンを実生で育てること自体が一般的ではなかったという事情によるものであろう。

大正7年(1918)横浜有志会発行の仙人掌銘鑑によれば金鯱はベストテン2位にランクされており、(参考:1位は新天地、3位は金赤竜)、昭和5年(1926)東京園芸組合発行の仙人掌銘鑑では3位である(参考:1位はランポー玉、2位は金赤竜)。

これを見ても金鯱はかなり貴重品であったことが窺える。まして開花年齢に達した大球ともなると、斯界トップクラスの人でさえ見たこともなかったのである。

 

「シャボテン」(戦前)創刊号、(昭和9年―1934-紅波園発行)に東京帝大小石川植物園・松崎直枝が「献上の仙人掌について」と題して一文を寄せている.

以下抜萃して紹介する。

「昭和5年(1930)11月下旬に墨国(メキシコ)から宮内省に沢山仙人掌が献上せられたのが東京の各新聞に掲げられた。その後新宿御苑に荷が着いたから見に来ないかとの御話だったので拝見に出たが、千幾個もの大小不同の仙人掌が大きな箱に詰めて居たのを取出して陳列してあった。

当時の新聞にも金鯱の大きな姿が見受けられた。此の金鯱だけでも直径約2尺(60㎝)余のものが5個、径1尺(30cm)余りのもの12、3個、ざらりと箱から出して並べてあったし、其他翁丸や猩々丸など無数にあった。此の金鯱もかなり乾燥して居た様であったが、後、十分に水分を吸った時の姿は又特別に立派だった。

 

(アメリカの業者の金鯱)

 あの黄色の剛壮な刺は美事で其の上端には花の跡があって結実して居た。何しろこんな大きなのは初めて見たので、あっと云って一驚を喫したのみで、一寸茫然たること多時であった。横浜植木会社に居る吾国仙人掌の著者として有名なる大塚春雄氏が拝見に見えたが、同氏も唖然たる事多時たりしは小生と同様で、ハハ・・・と云ってしまった。而して此れだけ大きいものは十二貫(45㎏)位あった。勿論此れは全く乾燥していた時の目方である。此れが荷造りにも竜舌蘭の繊維だろうと思はるる二寸(6㎝)もある布団を作って夫れに包んで刺が折れない様にしてあった。此等の内で数百個は小石川植物園へ御下賜になって、其の一部を京都大学にも分譲した。夫れから、金鯱の内でも刺の濃色のものと、薄色のものと、又其の肉色の濃いものと薄いものとあったりした。或いは多少其の生育して居た場所の関係もあるものだと思はねばなるまい。」(以上原文のまま。カッコ内は筆者注)

大体このころからわが国のサボテン熱は急速に高まり、栽培技術も向上して、嘗てはごく一部の人に限られていた実生も広く行われるようになった。

この勢いがそのまま続けば、国産の金鯱の大球がコレクションに君臨する日も遠いことではないと思われた。ところが、戦時色は年毎に濃くなり、サボテン熱は急激に衰え、遂に壊滅の憂目を見たことはご存じの通りである。

 

☆金鯱と私との付き合いは深く長い。

中学生のころ兄(平尾秀一)と共に親しんで来た金鯱数株は幸いにして戦中・戦後を生き延び、当時東京・蒲田にいた兄のフレームの主役となった。

通販で求めた金鯱の小苗は25㎝程度になっていたと思うが当時の趣味家のコレクションとしては注目される大きさであった。

そのころ大きいことで評判だったのは高槻市古曾部の京大理学部付属植物園にあった大球である。「カクタス」№91(1945・6月)の表紙に写真があり、主幹の瀬川弥太郎先生が解説している。

“大きさにおいておそらく日本一である。4個ある内最大のものは直径60㎝高さ48㎝で2尺5寸鉢に植えてある。重量は全部で58貫であるが金鯱自体は15貫(56㎏)位である。中略)昭和27年(1951)現在の鉢に植替えた。この植替えが大事業であった。それ迄毎年よく開花結実していたのがそれ以来開花結実しなくなった。大変御機嫌を悪くしたらしく困っている。年齢約70年。これは昭和5年メキシコ政府から送られて来た株の一部である。(筆者註)”

私も関西在住のころ、度々拝見に参上した。今も健在と思う。  同じころ、いや、こちらのほうこそ日本一ではないかと言われていた大球がもう一つあった。

福島県郡山市の太田辰雄先生の栽培品である。私も拝見したが、温室内地植えで60㎝を少し越えていた。太田先生が軍医として出征する時、胴切りして据えたものがそのまま発根し生長を続けているとのお話であったが、大きさと風格に圧倒された記憶がある。

1959年10月伊豆シャボテン公園が開園した。農大の近藤典生先生その他努力によって集められたカクタスの数は厖大で目を見張るものがあった。球型種では巌の大きさが群を抜いていた。もちろん金鯱の巨大球もあった。60㎝は軽く越えていて、記録のようなものはないが、これまで見たうちで最大と直感した。ここの金鯱群はその後順調に成育を続け、引き続き公園の看板の地位を堅持している。サイズは自生地での限界とされる80㎝を優に超えていると思われる。

わが家の金鯱といえば、東京から逗子へと移転し、人並みではないにしても年月と共に大きくなり遂には老境の身に余る重量に達した。数年前私が逗子を撤退する際、最後の力を振り絞って梱包し、姪の嫁ぎ先である香川県に送った。現在は手作りのお堂の中にお地蔵さまのように鎮座して余生を送っている。(左写真)既に兄より長生きした。このまま育って私より長生きするのは間違いないであろう。(写真は1941年ごろ)

(平尾 博)

 

 

5株の金鯱

2002年の埼玉サボテンクラブ銘品展年品評会に出品された株。 栽培者は長野県の両角博氏。 大きくなり過ぎて持ちきれなくなったら地植えにする等と言う計算は始めからなかった筈。 あくまで持ち運び可能を意図した作品とお見受けした。 自生株やそれを目標とした栽培株とは一見して一味違う。 園芸品としての立場が鮮明である。 (写真提供・戸澤氏)
ラスベガス郊外の営業家の栽培品とか。 金鯱の原生地はメキシコ・イダルゴ州とその西に接するケレタロ州の境を流れる モクテスマ河流域の険しい岩山。王者の貫禄を生み出した原点はその環境にある。 栽培の適地と目されたカリフォルニア州南部などではかなり以前から数万本に及ぶ 金鯱実生苗の地植え栽培が試みられ大市場が定着している。 その東北に位置するラスベガスの環境はさらに苛酷だろう。流石といえる強烈な風貌。 (写真撮影・提供 戸澤博氏)
盛岡市宮武幸男氏の愛培株。 まだまだ発展途上の若苗の頃、見込まれて主役の座を約束されたエリート。 冬の厳しい東北の地にあって、凍害も受けず日焼けも起こさず、円満に成球に達して ご主人の期待に応えている。健康美と活力に満ちた幸せ一杯の国産球。
奈良多肉植物研究会・阪井健二氏栽培の標本株。W40cm×H42cm。
金鯱に斑入りなどいらない、あの刺、あの容姿だけで十分という栽培家がいないでもない。しかし、光沢ある鮮緑肌を彩る黄斑模様はまた格別である。繊細な味が売りものの多くの斑植物と比べて、巨体ならばこそ、雄大な姿態にマッチした美斑を備えた姿は貴重である。
茨城県・カクタスブライト社・二瓶和宏氏栽培の群生株。
金鯱は最終的には径80cm、高130cm位になり、その頃までに仔をつける例も多い。非常に少ないが若い頃から群生する固体も時にはある。生まれながらの端正な姿の単体に馴染んだ目からみれば群生株は多少の違和感があるかも知れないが、数頭が競い合って育つ姿には別の風情がある。